昭和46年05月16日 特別奉修委員会
合楽のお広前の事を例えて申しますなら、大きな例えば汽船の様な物で、それに皆が便乗さして頂いて、まぁそれぞれの目的の地に行かなければならん。その機関の所によっては、其の船の動く原動力になるおお本。何と云うても親先生の信心。親先生には例えば、体が弱かったり、寝付いて居ったんでは機関部に故障があるのも同じ事であるけれども。いわゆる原動力の、である動力の原動力が鈍る事にもなるわけです。
そこで、矢張り此処でもそのならモーターと云うか、原動力と云うか、そのもとだけではなくて、その周囲、周辺のまぁそれぞれのやはり、機関と言った様ものが、正常に活動しておらなければならないと言う事になるわけです。そう云う意味で私は、特別奉修委員の方、まぁ美登里会の方達から参加して下さる、例えば、私の事を中心に思って下さる、教会のことを中心になって下さると云うその方達の信心と云うものが、どの様な信心であらなければならないかと、言う事です。
先ほど久留米の皆さんと話した事ですけれども、四国におられる姉さんの話が出て、もうあちらはもう本当に願いが願い以上にいっつもおかげ頂いて、と云うお話から今日のまぁなんて云うても「 ? 」ごともそうですけれども、非常に何て云いますかね、おかげを頂やすいタイプですね、こりゃおかげを頂きやすいタイプじゃんね。あんたん所なんかは、おかげを頂き難いタイプっちゅてから話しよるとですけれども。
矢張り此の中心になって下さる幹部の、御用で働いて下さって云う人達は、本当はおかげも頂き難い人達だと思うんです。特にあの美登里会の方達なんか、おかげの頂き難い方達だと思うですね。性根とかその心の状態なんかにですね、色んな欠陥ある意味では欠陥持って居る、と言った様な人が集まってると言った感じですね。ですからそのおかげを頂きにくいけれども、だからその為に苦労がある。
そのために修行をする。だからお徳を頂いて行くタイプ。どっちが良かですか皆さん。おかげを頂くタイプと、お徳を頂いて行くタイプ。信心さして頂いて此処でお話し頂く程しの人ならばですねやはり信心を即、お徳を受ける事だとひょとして。でなかったらあの世にも持っていける、此の世にも残しておけると言う事になりませんもんね。ただ信心のみ顔だけ参ってから、御願いすりゃおかげを頂くと云うタイプの人がありましょうが。けれども、それではおかげを頂くからってだけですから。
まぁ直言すると、神様に借金をあげる様なもんですよ。だから私どもの望んだ自覚、先程「 ? 」さんが、お届けされます様にものすごい御夢ですよね。猫が蛇を食べとったと猫といや不浄と仰る。巡りといやぁね身の巡りと云うでしょう。その不浄が巡りを食べて、尚ひどい事をしとると。ね、だからね本当に間違えますとね、私共はすぐそげんなふうになるとですよ。
今日もある方が、お届けられます様に、もうこの頃、お参りもあんまりされませんし、まぁ何と云うんですか息子ん所に行って、まあ御ご馳走に成って来た、今度はあれを奢を作ってきてくれた、それだけでその、もう喜びなさるって言う事なんですけれども。まぁ、成る程それも結構ですけれどね、だからそれを、その喜びが本当に信心から神様からのおかげでと云う物がいるけれどね、それでは可笑しなものだなぁと思いよる所へ、あの定男さんがみえて来られたんですけれども。
あの娘さんのお夢頂いたって云うのですね、『自分の周り玉子もある』色々アイスクリームが作られる材料があの、そのアイスクリームを作っておるとこrを頂いたと言う事なんです。だから、アイスクリームが栄養になると聞いた事あるかな。やはり牛乳は牛乳、卵は卵として頂いて、始めて本当の栄養に、力になるもんです。いかにも甘ったるくて、なんかそういうね、さぁ着物が出来た、合楽にと言った様な事でね、その有頂天になるような信心では、とても合楽の機関部には務まりませんね。
ですからその為にやはり力を受けなければなりません。ね、それには皆さんの場合なんか徳を受けられる、一つのタイプなのですから、其処ん所を一つありがたいと思うて、おかげを受けて。昨日の朝の御理解の中に、私は、熊谷さんの信心を中心にお話ししましたんですけれど、もう私は昨日お参りしにみえてから、あら今日の御理解のまた裏付けの様な事をお届けされるなぁと思うて聞いたんですよ。ね。
まだ御理解頂かれる前に。昨日の御理解いただかれて居られますでしょ。ですがその先生昨日お参りをして帰らせて頂いて、それからもう本当にもうそれこそもう、その有り難うして有り難うして、そのぐすと人が人ですからまた生きて行かれる。もうそう云う思いでいっとりますと、もう周囲が有り難いものづくめであり、またあちらに云ったら駅員さんから、手を取り足を取らんばかりでして、その大事にされて、汽車に乗りこまして頂いたと云う感じです。
所がずっとその汽車ん中で思い付かれた事はね、あらぁ私はご飯を家で炊きかけてから、ほっぱらかして来とる。ちゅこと。ガスを掛けたままにして、さぁ、しかも時間もちょうど4時間なんぼになっとる。此処で、普通なら大変な、所がどうですか。昨日の御理解に申しました様に、そう云う時にね、どうぞうろたえんで済む信心するなら、所がその熊谷さんの心の中にあるものはですね、いいですか。
熊谷さんが本当に頂いとられるとですよね、その頂く前のお届けですから。だから丁度前の日の本当に、ほなあすこえ私が言いよった通りの、おかげを頂きよりなさるなぁと云う事なんです。そして帰りよった所が途中で此の頃から、選挙の度に御願いしょなさった、その方が出て来てから、はらー改めて出て来てある様にて、ほでいっちょ私も合楽に連れて参って、ちょっとそげな段は無か私は早よ帰らん、と言いよるのを、それでも心が落ち付ついとる。
ね、神様がね、おかげ下ださらんはずはないって云う、そうなんですよ。そしてげな丁度娘さんが、務めから帰られよる、いわば、そこで話しがすんだわけでしょう。所がさぁ、○○さんに先に帰られたんな「 音声不良 」一緒に帰ってから、こっちの嫁さんが表から鍵を開けよんなさる時に、自分の裏から入って行った所が、成る程中は炭のごと焦がれてしもうとった。
まだ火はチョロチョロ燃えよったとこう云う、けれども何とはなしにおかげ頂いて有り難い。そう云う時に慌てずに済むと言う事ね。もうなんて素晴らしいいわば信心じゃろうか、力じゃろうかと思いますね。力信心の力とどの位のものか分からんぐらい、今日もまた昨日の裏付けの様なお届けを色々聞かして頂いたんですけれどもね。私はそう云う力でこそ、機関の御用が務まると思うんですよね。ですからこりゃ皆さん、私からも願うが、神様からの願いからだと思うんですよ。
親先生が健康って言ったと、所謂合楽教会の中心としての御祈念も下さり、又はお祈り添えを下さり、又はそう云う立場に持ち場と云う物を教会に持っておられると云う事っておられると言う事です。本当にそう云う自覚に立ってですね、ただマイホーム的なおかげ頂いて、もう良か婆ちゃんにならして、それ位の事じゃなくてですね、私はその力をどうでも、もちっと大きな事に使うて頂きたい。そう云う大きな事に、祈りをかけて頂きたい、もう一回り大きくなって頂きたい。そんな願いを持っておる訳です。
どうぞ。